katuodori
鰹鳥舞う島影


    口白石鯛の大群


 翌2日も晴天、午前5時に磯へ渡る。
 さァ、いよいよ夢にまで見た、宇治群島への挑戦である。
 場所はどこもかしこも好ポイントだから、手当たり次第試みて、もしそこが駄目なら、すぐハシケで移動することに決め、先ず手始めにガランという瀬に上がる。下を見ると潮の流れが無闇に速い。同行の林さんがフジツボを落としてかぶせて下さったが、潮に流されて止まらない。
 ええい、ままよと、碆の先端から第一投を打ち込む。撒き餌が利かないせいか、アタリがない。陽が高くなり時間が流れる。と、8時、初めて待望のアタリが来た。グイと合わせて巻き上げたが、手応えも軽く、上がってきたのは七百匁未満の小さいやつ。続いてもう一枚、これも先と同じくらいの小さいもの。折角ここまで来て、と思うと、どうも余り面白くない。それから続いて二回かけたが、一つは水面でバラし、一つはワイヤ切れ、連続二回ものミスに、いよいよ以て面白くない。すると、途端にアタリが遠のき、喰わなくなった。流れが速すぎて、コマセが利かないせいだろうか。
 それで、ひるからは少し沖の「馬乗り」という小さなハエに替わった。足場は少々悪いが、潮のぐあいで左側へ打ち込んだ。一時間ほどして、次第にアタリ始めたが、どうも喰い込みが悪い。されば、とじゃんじゃんフジツボを掻き落とし、それから流れ子の餌をサザエに替えて投げ込むと、餌が底に着かないうちに、グーッと来た。どうせまた小さい奴だろう、と軽い気持ちで竿を合わせたが、今度はどっこい竿が上がらない。
 「アッ」と叫んだかどうか、途端に私の体は宙に浮いていた。不用意といえば不用意だが、足場の悪いトンガリ岩に両脚を揃えて立っていたのだから、いきなり竿先を水中に舞い込ませるほどの激烈な衝撃には堪え切れるものではない。一瞬私は体勢のバランスを失って、真っ逆さまに墜ちて行った。幸いにも水面近くで岩につかまり、柔道の受け身よろしく顔面を打つことは免れたものの、手はフジツボで切って血だらけ、それでも流石に竿は放さず、はね起きざま、その竿を立ててみたが、ナイロンはとっくにハエで高切れ、しばらくは声もなくそこにうずくまっていた。
 林さんが驚いて飛んできて、私を引き上げて下さったが、「ここのヒサは口白と言って、二貫以上はザラですから、充分注意してくださいヨ」とのご忠告。
 口白とは何か? どんな奴か?わたしは想像つかないが、ともかく宇治群島の凄さの一面にふれた思いで、背筋を冷たい戦慄が走った。するとファイトが深いところから湧いてきて全身に溢れ、私は思わず、「よォーシ」と口に出して呟いた。
 今度は前の失敗に懲り、始めから慎重に充分体勢を整えて竿を持つ。コマセが利いて、喰いも立って来たのか、直ぐゴツン、ゴツンという石鯛特有のアタリが穂先に来る。と、見る間に、竿全体が胴震いしながら、穂先から水中へ吸い込まれて行く。
 「エイッ」とばかり、後ろへひっくり返るほど強引に竿を合わせると途端に竿は満月を通り越して逆U字型にきしむ。想像を絶する凄い引きだ。そいつを力の限り腕限り、唯もう強引ガムシャラに巻き上げると、なんと口が真っ白な石鯛、腹に黒い模様があって薄灰色の魚体は、まるで石鯛の王様さながらの風格がある。大きさは一貫六百クラスの、標準を少し出た程度だが、その引きは大阪近辺のそれとは比較にもならぬ豪引である。どこにそんな力の差が生まれてくるのか、考えれば不思議千万。
 「来てごらんなさい、ヒサがたくさん見えますヨ」
 林さんの声に、下を覗いて、思わず“ウワーッ”と唸った。南海の澄み切った波の下に、真っ黒になるほどの巨大な口白が、銀鱗をひらめかして遊泳している。その数は20匹や30匹ではない。コマセにすっかりノボセ、浅場に上がって来たのだろう。
 「俺は夢でも見ているのではないか」と思わず頬をつねってみたがやはり痛い。ふと、横を見ると、置き竿の穂先がまたもや舞い込んで、殆ど垂直に近い角度で、激しく上下にシャクっている。驚いて飛んで行ったが一瞬遅くハリはずれ。
 さればと、餌をつけ替えるのもモドかしく、真っ黒な魚の集団の真ん中に抛り込んだが、どうしたものか、途端にもう当たらない。下を覗くと、潮の流れが今までとは逆になって、あれほどもいたヒサが、一瞬のうちにフイッと姿を消している。まるで嘘のような話だが、潮が石鯛の就餌と動向に、絶対的な作用を持つという現実を、マザマザと見せつけられる思いがした。
 時計を見ると4時、今日は4枚バラして3枚しとめただけだが、よし、明日こそは釣って、釣って、釣りまくるぞ、口白よ、明日こそお前と勝負しよう、と心の中で呟いて、竿を納めて船に帰った。
 真紅の太陽が音もなく東シナ海の波間を染めて消えていく。身の引き締まるような荘厳な眺め。やがて、夜のとばりが徐々に暗く空を覆い、星が手の届く近さで、降るようにまたたき始めた。
 その頃からまたクエを試みたが、その夜も私の竿にはアタリは遂に来なかった。林さんが二貫足らずの小さいのを一本上げたのみ。(つづく)